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西村京太郎氏略歴 1930年9月6日東京都荏原区小山町(現品川区小山)生まれ本名:矢島 喜八郎(ヤジマ キハチロウ) 既婚 西村京太郎は、東京・日暮里駅前のせんべい屋の息子。妹一人、弟二人の四人兄弟の長男。子供の頃は身体が弱かったせいか、近所のガキ大将にいじめられて泣いてばかりいたという。 数学が得意だった経緯から都立電機工業学校に入学したが、翌年にはエリート軍人の養成機関である陸軍幼年学校に転校した。しかしながら第二次世界大戦が終戦を迎え、日本の敗戦と共に陸軍幼年学校も消滅した。そのため、都立電機工業学校に復帰し、1948年に卒業を迎えた。卒業後は、新聞の求人広告を頼りに発足したばかりの臨時人事委員会(現在の人事院)に勤務し、国家公務員として11年務めた。 人事院時代は、職場の同僚と文学サークルを作って、安部公房の独演会を開いたりしており、人事院の退職を考え始めた頃から作家になる考えを持ち始めたという。 1956年、講談社の長編探偵小説募集に「三〇一号車」を本名名義で応募。 1957年、第三回江戸川乱歩賞に「二つの鍵」を「西村京太郎」名義で応募。 1960年、江戸川乱歩賞に「醜聞」を「黒川俊介」名義で応募。 人事院退職後(1960年)、当初は退職金で食いつぶしながら一年以内に作家デビューを志したが、うまくはいかず、退職後しばらくは、退職したことは家族に内緒だったので、毎朝定時に家を出て、上野の図書館で小説を書いたという。 1961年「黒の記憶」で第2回宝石賞候補となる。 この辺りで、私立探偵、トラック運転手、保険外交員、競馬場の警備員などの職を転々としていた。 1962年「病める心」でふたば新人賞に二席入選(一席は該当作品なし) 1963年「歪んだ朝」で第2回オール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。 64年「四つの終止符」で初の長編を書き下ろした。 1965年「天使の傷痕」で第11回江戸川乱歩賞を受賞。 1967年「太陽と砂」で総理府主催「二十一世紀の日本・創作募集」に入選。 1978年「寝台特急殺人事件」を刊行。その後はほとんどトラベルミステリーものを書くようになる。 当初は「寝台特急殺人事件」と「夜間飛行殺人事件」あと1冊、船を舞台にしたトラベルミステリー3作で完結する予定だったという。 1981年「終着駅殺人事件」で第34回日本推理作家協会賞を受賞。また同作品はファンの間でも傑作と評される。ちなみに同作品は3回のドラマ化が実現されている。(81年、01年、12年) 近年においても作品を書くペースは変わらず、作品数は数を増やしつつある。また西村京太郎氏原作のドラマも留まる事なく制作されており、ファンの私としては大変嬉しく思う。 また、キャラクターとして有名な十津川警部は、イコールトラベルミステリーシリーズと勘違いされがちであるが、「寝台特急殺人事件」以前の著作である社会派、本格派ミステリーと呼ばれる作品にも既に登場している。 2001年に神奈川県湯河原町に「西村京太郎記念館」をオープンする。隣は現在の自宅であり「矢島」という本名の表札が掲げられている。 京都在住時代は「西村」という表札を使用していた。また京都時代の隣の家は故・山村美紗氏の家であり、家と家同士は繋がっている(いた?)という。 「西村」と言うペンネームは尊敬する先輩から。「京太郎」の「京」は、京都を舞台とする作品が多いせいか、京都の「京」であると勘違いされることが多いが、東京の「京」である。